川村 信三 SJ
上智大学文学部教授 / イエズス会司祭

  イグナチオ・デ・ロヨラの故郷は、スペインはバスク地方のギプスコア県、アスペイティアという町である。人口15000人足らずの小都市の郊外2キロのところに、イグナチオの生家ロヨラ城と墓廟(Santuario)が屹立する。町と城は旧街道一本でつながり、そのほぼ中間地点に、その昔、マグダレーナと名付けられた粗末な「慈善院」(Hospes)が存在していた。

1536年11月、生涯をともに「神の国のため」に生きると誓っていたパリ大学生らがヴェネチアに向かっていたとき、イグナチオは一人故郷のアスペイティアにいた。生まれ育った貴族の館には戻らず、マグダレーナ慈善院を仮の宿とした。兄がわざわざ出迎え、城館に留まることを懇願したが無駄であった。イグナチオの心には、すでに回心の恵みが情熱の炎として燃え上がり、実践へと向かわせていたからである。

  この慈善院にいる間に、彼を訪ねてきた多くの人たちと神のことについて話したが、神の恵みによって、かなりの実りを結ぶことができた。故郷に到着すると、すぐに、毎日子どもたちに公教要理(カトリック教会の教え)を教えようと決心した。兄は、誰も来ないだろうと言って、まっこうからこれに反対した。巡礼者は、一人でも十分であると答えた。しかし、ひとたび彼が公教要理の話を始めると、いつもたくさんの人たちが彼の話を聞きに来た。その中には兄もいた。 (『自叙伝』88)

この慈善院の滞在は、イグナチオ『自叙伝』のなかで特別注目されているわけではないが、ここに、後のイエズス会の活動を予期させるすべての要素が現れている。

イグナチオの行動は、アッシジの聖フランチェスコを彷彿とさせる。その回心は、アッシジ郊外の慈善院の病者たちを訪ねることで初めて示された。アッシジの教会門前で、すべての衣服を脱ぎ、巡礼者の装束をまとって町を去るのは、当時、重い皮膚病に罹患した者の宿命であり、彼らは城外へ追い出され、街道沿いにある「慈善院」に身をひそめ、「物乞い」以外に生きる「すべ」をもたなかった。托鉢修道士の意味はその境遇の共有であった。まったく同じ行動を、イグナチオも始めた。慈善院に寝起きするとはそういう意味であり、回心の結実といえる。

子どもたちに公教要理を教えたというのも意味深い。回心の病床で接した福者ヴォラジネの聖人伝からうけたインスピレーション、すなわち「聖フランチェスコや聖ドミニコのように活動する」ことにつながっている。聖ドミニコとその同志たちの活動拠点は、南フランスのラングドック地方という、中世異端の温床になった地方である。キリスト教の基礎教理を無知な人びとに教え、異端の危険から守ることが聖ドミニコたちにとっての優先課題であった。イグナチオも、回心後の旅の途上、「照明派」の異端の嫌疑をうけて、学びと教えの大切さを身に染みて感じていた。
イエズス会員の初期活動を理解する際、二つの概念の考察が重要となる。一つは、「慈悲の業」(opere misericordiae)である。マタイ福音書25章から導き出される、中世以来のキリスト教的愛徳および人道的活動の根拠である7つの「慈悲の業」の実践が、真のキリスト者をつくると考えられた。すなわち、「飢えた者に食物を」、「渇いた者に水を」、「裸の者に衣服を与え」、「病者を世話し」、「巡礼者に宿を貸し」、「監獄の囚人を訪ね」、「死者を埋葬する」(トビト記1・17も参照)。これらを最も貧しい者にしたことはキリストにしたことである。キリスト者はこの「最後の審判」の話を「善きキリスト者」として生きるよりどころとした。イグナチオもその例にもれず、キリスト者の原点に立ち返ったのである。

もう一つの鍵は、「信徒信心会」 (confraternitas:兄弟会)との関連である。13世紀ごろからヨーロッパで成立した、信徒のみによる「信心会」運動は、先の「慈悲の業」の実践を心掛ける信徒たちの同好活動の総称である。毎週教区教会の典礼に通うだけでは物足りなく感じた熱心なキリスト者たちが、自分たちの余力を用いて様々な慈悲活動に特化した団体を結成した。16世紀の初頭には、100名規模の集団が、ローマだけでも150を数えるほど存在した。イグナチオの初期の活動を考える際、この「信徒信心会」運動との関わりを無視するわけにはいかない。

イグナチオが同志たちのグループを、旧来の「修道会」(Ordo)ではなく、「コンパニア」(Compagnia、英語のSociety)と呼んだことは、当時の多くの信徒信心会が「コンパニア」(仲間たち)としてまとまっていたことに倣ったものである。イグナチオの念頭には、このグループが「慈悲の業」の実践を通じて「魂の救い」(Help of Souls、ジョン・W・オマリーの用語)に貢献する「仲間」という意識が強くあったのだろう。それはあのアスペイティア滞在の時にすでに姿をみせはじめたものの延長線上にあるものだった。
同志らがローマに到着した1539年の冬、寒波が襲い餓死者が続出した。その際、スペインの有力な貴族との繋がりを利用し、同志たちは、スペイン人たちの多く住む界隈で寄付を集め、ローマ市内で「炊き出し」や衣料配布の救貧活動に従事した。その一方で、ルター派の福音主義に似た教説を唱える司祭と小教区教会で論争し、あるいはローマのサピエンツァ大学で神学の非常勤職を得て「教え」に専念する初期会員もいた。

  イグナチオ自身は、「道の聖母教会」につくられた「聖体の会」という信徒信心会に属していた。御聖体訪問と顕示を中心に集まる「信徒信心会」の一つであるが、その他、ローマには「聖体会」としてソプラミネルヴァの聖マリア教会のものが有名で、その名簿にもイグナチオは名を連ねている。

同志の多くが「不治の病の病院」(Ospedale degli incurabili)で奉仕活動をしたのは、ヴェネチア滞在以来の習慣であった。この場合、「不治の病」は新大陸からもちこまれ、1496年頃に全ヨーロッパで猖獗〈しょうけつ〉をきわめた「梅毒」をさす。こうした病者の世話にも「病院」と「信徒信心会」が活躍し、イグナチオたちはヴェネチアにあったジェロラモ・ミアーニ(Girolamo Miani)の「貧者につかえる者の会」(Compagnia dei servi dei poveri)に大きな影響をうけていた。

売春に従事していた婦人を保護し、更生させるための女性の家、カサ・サンタマルタ(Casa Santa Marta)の創設にも同志たちは力を注いだ。そうした活動は、もとはローマのサンタ・カタリーナ・デ・フナリ教会にあった「惨めな境遇にある女性たちの会」(Compagnia delle Vergini Miserabili)という信徒信心会の活動内容であった。保護された女性たちは更生したのち、持参金を与えられ結婚相手を紹介されたり、修道院の門をたたいたりした。さらに、飢饉の後、街にあふれる孤児たちの世話のため、パンテオンの近くに「孤児の会」(Compagnia degli Orfani)という組織が創設されたのは1541年のことであった。
イグナチオ自身このような「信徒信心会」に所属した経験があり、同志たちも協力関係にあったにもかかわらず、『会憲』のなかで、会員たちが今後、「信徒信心会」とは距離を置くようにと規定したのもイグナチオであった(651番)。おそらく、「信徒信心会」の修道会にも匹敵する大きな影響力と、運営における多大の労力を考慮した結果なのだろう。その後のイエズス会の「信徒信心会」との関わりは、創設者となり、あるいは監督(supervisor)としての責任はとるが、実働部隊としての参加は控えるという形が主流となった。日本におけるイエズス会経営の豊後府内病院とキリシタン信徒たちの「慈悲の組」はまさにその関係にあった。

イグナチオの回心500年を記念するイエズス会が、今、もっとも強く思い起こすべきは、1536年のアスペイティアと1539年のローマの同志たちの活動であろう。イエズス会とは何かを示すすべてがそこに集約されている。

『社会司牧通信』第221号(2021.12.15)掲載